空虚なる快楽あるいは「愛」に気づいて。

Lecの択一回答速報到着。偏差値40という結果に仰け反る。
昨年と点数が少しも変わっていなかった(しかも限りなく低レベルで)ということは、つまるところ「一年間まるでムダ」なことをしていたということですね。
おかげでマジで司法試験受験をやめたくなりましたよ。


というわけで、昨日一日はテレビや本や息子に持てる時間のすべてを費やしました。
トリビア、ミリオネア、とんねるず恋におちたら(全部HDD録画したものをCMカット再生)と塩野七生の「ローマ人の物語 ルビコン以前(上)」ISBN:4101181586見ましたよ。
意地になってましたね「絶対に今日は勉強しない」って。
と同時に「勉強しない自分」に耐えられるかを検証する目的もありました。
不安になってテキストを開いたりしないか、開かない自分に不安を覚えないか。


結果ですが、まぁする前から分かっていたことなのですが、ちっとも楽しくありませんでした。寝る前にも商法テキストの「優位株」の定義や条文を確認してしまいました。
(「恋におちたら」の中で登場したからだってのは抜群に秘密だ)
そうなんです。法律の勉強(特に私法)は一度やり始めたら麻薬のような中毒性があるんです。特に自分のような「理数系」は、論理で緻密に組み立てられた世界には本当に弱いんです。
結局自分は、法律の勉強が好きなんです。好きなのに、その能力が足りないんです。
だから悔しくて悔しくてたまらないんです。どうして、こんなに好きなのに、実績が伴わないんだろうって。


と、ここまで書いて気がついたこと。この構図は、何かに似てます。
そう「恋」「片思い」に。
自分の勉強は「かなわない相手にアプローチをしている」行為に他ならないのです。
そして「恋」は一方的に求めるだけのものを指すのに対し、相互に与え合うものは「愛」と呼ばれます。
(自分が法律に「何かを与えようとしているか」は、正直この一文を書くまで考えたことはありませんでした)
「恋」は常には「愛」には成りえません。
献身の上にいくつかの偶然が積み重なった場合「愛」は現実化します(反対説があることは認識しています)。
献身も偶然も不足しているのが今の自分と言うことなのでしょう。


昨日の実績
というわけで、進捗なし