白い猫と黒い猫

週に一回ほど注目しているウェブログにて、討論中の「文系と理系」。
http://absinth.exblog.jp/1392705
自分は高校時代に数学や物理学で赤点を取っておきながら、意地でも理科系進学コースにこだわり、予備校でも赤点を取りながら最終的に理科系単科大学に入ってしまった、超低性能理系頭脳の持ち主だったりします。
その後も雑文を書いたり、司法試験を目指したり、理系の風上にも置けないような活動を繰り返しておりますが、その課程で気がついたことに
「真実探求の過程以外に、理系・文系の差異は認められない」ということがあります。




高校までの初等数学(小学校の算数も含む)で登場する「定理」は、ほとんどが「一般原則」的なものです。同様に物理学の「法則」も「お約束」の性質を強く持った「一般原則」と言えましょう。
一方で国語や英語も、実用性としての性質はともかく「最低限の読み書き」や「文章を書くためのルール(句読点の位置や、原稿用紙の使い方など)」の延長であり、やはり「一般原則」である点で、数学や物理学と共通しているように思えます。
そして専門教育である大学で、はじめてその「一般原則」を利用しての「真実探求」が行われているのです。
事実大学では、一般教養時(すなわち講義時)に、一般原則はさらに徹底され教育されます。学生は、自らの研究テーマとして取り組むに際して、今までに身につけた(はずの)一般原則のうち「いずれかの原則」を選択する形で真実探求に取り組んでいます。
今法律の勉強をしていて感じることは、文系学問も理系学問も真実探求を目指す点では変わらず、その一般原則が「言葉」で書かれたか「数式」で書かれたかの違い以外にはないのだということです。
すなわち一般原則とは「道具」であり、高校までの理系・文系の差異とは、その「道具」のうちいずれに長けているかであると思うのです。




そして両者の極限は、かなり接近しています。
数式の羅列による証明事項が、ある種の詩的外観を有しえるように、綿密に構築された法文の集合体は、常人には反証が行えないだけの「法則」的な性質を有します。
ところで、理科系か文科系かとの違いよりも「工学か理学か」あるいは「法学か経済学か」の違いの方が、むしろ間隙が大きい気もするのですが、それはまたいずれ。




タイトルですが、声高に叫んだりすると「修正主義者」と批判されたりするので気をつけられたし(←このようなところが文系)