倖田來未、朝青龍ですら「勝ち組」ではない。

既に沈静に入りつつある倖田來未の「暴言」騒動ですが。
正直私としては、その発言の内容については「どうでもいい」です。*1
一方で、その発言者とは関係が希薄な方々が、色々と非難されていたようですが、その考えとするところも理解できなくは無いです。
ただ、なんとなく薄ら寒い所があったという意識だけは強く残りました。
そして、その理由について、昨年の朝青龍「二場所出場辞退」という騒動を思い出し、ようやく理解できました。



この二人に共通する事として

  1. 若い
  2. すでに、その目的とする世界で成功し、大金を持っている

という点があげられます。
今流行の言葉で言うと「勝ち組」という階層なのでしょう。
ところが、このかれらの成功とは、その彼らを仰ぎ見る大衆に支えられているものです。
曲を聴いてくれる人、相撲を見に来てくれる人、その大半が大衆であり、そして大衆の大半が「負け組」に「下流化」していくのが今の流れです。
ココで重要な事は、誰もその大衆に対して曲を聴くことも、また相撲を見に行く事も強制できないということです。
つまり、彼らの成功は、その下流に位置する負け組の「自由意志」によって左右され得るという帰結になります。
この点が、彼らが決して勝ち組ではないと感じる一番重要なポイントなのですね。



競争社会の帰結として「勝ち組」「負け組」があるのであれば、その階級付けが行われる前に、何らかの競争があったと考えるべきです。
その競争とは、当然に公平であったはずではないのですが、いずれにせよ、それが行われた結果、少数の収奪する側の「勝ち組」と搾取される側の「負け組」との間に越えられない線が出来たわけです。
ここで、その線をいっそう確固たるものとするべく「勝ち組」は、その収奪の度合いを強めます。
そうすれば「負け組」は、その生活に苦しみ、這い上がるだけのチャンス確保の機会すら奪われるからです。
であるからこそ、収奪の手段は「強制的・非自由意志的」である必要があるのです。



曲を聴くことも相撲を見に行くことも、自由に行われるものです。*2
そして彼らを仰ぎ見る者のうち若い者には、「絶望」とは対極的な「自分もそうなれるかも知れない」という類の「希望」を与えることもあり得ます。
彼らの存在が、他者を苦しめ、そして這い上がるチャンスを奪うものでないのです。
そういう意味では、彼らもまた、大衆の側にあるということになり得ます。
たまたま「大人の都合」で、頭一つずばぬけているだけなのです。



朝青流は、初場所は優勝を逃しましたが、立派な相撲をとってくれました。
倖田來未も、その歌唱力はもちろん、自ら目標を立て、かつそれを実現できた*3点十分後を追う者の規範になり得ます。
是非とも復活していって欲しいです。

*1:発言者の一般知識が十分か否かと言う点も然り

*2:無論、情報操作で「ブーム化」された「強制」はあるけど、その程度は弱い

*3:「食わず嫌い」に出場する事を夢見て頑張った、とのエピソード参照