総論

択一模試は、昨年とは異なり終盤の5回を受けました。
本番とまったく傾向も難易度傾向も異なった問題を解く事に違和感はあったのですが、感覚を持つために行っています。
結論から言うと、これは金と時間の無駄だったのではないかと思います。
何より、模擬試験中に感じた違和感を、ほとんど本番試験では感じなかったからです。
あと、これが一番の過大なのですが「一人になる時間」を如何に構築するかというのが、最大の課題であると思えました。
というのも、昨日はホテルで一泊して「完全一人時間」を、5時間ほど持つ事ができたのです。
これが、記憶のためには思いのほか効率が良かったのです。
わかってはいるのですが、既に妻子を持つ身にはこれが一番厳しい。考えどころです。


 父の来た道。

息子が「アスペルガー症候群*1の可能性が高い」と、専門医に診断されました。
何かこう・・・今まで3年半、子育てに悩みながら我が子と向き合って来た苦悩のみならず、私自身の今までの人生をも総括し得るかのような帰結ですらあります。


さて。
択一試験はいよいよ3日後です。
できること、できないこと、やりたくてもできなかったこと、色々と残していますが、頑張っていきましょう。

*1:発達障害の一種。知能は十分(平均以上のこともある)であるにも関わらず、周囲との関係を構築するのが苦手

 訃報。

先にこのブログでも触れたことがある「柏ボンベイ」のマスターが逝去されました。
ただ、ご冥福をお祈りいたします。。。
葬儀日程などは、ブログのPICK and ROLLさんに記載されています。
http://blogs.dion.ne.jp/ana_gato/archives/6925176.html

 わが弟。

職場のストレスで、とうとう欝になったらしいです。
産業医の診断で「休業(一ヶ月)」となったようですが、何をしてよいのか途方にくれているらしい。
ですので「6ヶ月になった娘を見においで」と誘ってあげたのですが・・・。
皆様もご注意を。

 今日の読書。

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)

「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)

ヲタキング=岡田斗司夫氏の著書。
世界征服の実現可能性を、かなり抽象的概念的でありながらも検証し、その反面得られる「世界征服の『果実』」が「金銭化=相対化」されたものでしかないことを明示しています。
結論は「そんなことまでしなくても、お金との折り合いさえつければ得られるでしょ」ということでしょう。



ただ、本質的な疑問として、本当に「お金を出せば得られる」のかという点が疑問に残りました。
中国冷凍食品の問題で明らかになった「食に対する不安」がそれです。
食料自給率がドンドン下がり、その食い止めるすべもなく(あるのかも知れませんが)単に「どうしよう、どうしよう」とだけ言っているこの日本。
自分だけの問題ではなく、後に続く世代のことを考えたら、それはトンでもないことなのだと思います。

 倖田來未、朝青龍ですら「勝ち組」ではない。

既に沈静に入りつつある倖田來未の「暴言」騒動ですが。
正直私としては、その発言の内容については「どうでもいい」です。*1
一方で、その発言者とは関係が希薄な方々が、色々と非難されていたようですが、その考えとするところも理解できなくは無いです。
ただ、なんとなく薄ら寒い所があったという意識だけは強く残りました。
そして、その理由について、昨年の朝青龍「二場所出場辞退」という騒動を思い出し、ようやく理解できました。



この二人に共通する事として

  1. 若い
  2. すでに、その目的とする世界で成功し、大金を持っている

という点があげられます。
今流行の言葉で言うと「勝ち組」という階層なのでしょう。
ところが、このかれらの成功とは、その彼らを仰ぎ見る大衆に支えられているものです。
曲を聴いてくれる人、相撲を見に来てくれる人、その大半が大衆であり、そして大衆の大半が「負け組」に「下流化」していくのが今の流れです。
ココで重要な事は、誰もその大衆に対して曲を聴くことも、また相撲を見に行く事も強制できないということです。
つまり、彼らの成功は、その下流に位置する負け組の「自由意志」によって左右され得るという帰結になります。
この点が、彼らが決して勝ち組ではないと感じる一番重要なポイントなのですね。



競争社会の帰結として「勝ち組」「負け組」があるのであれば、その階級付けが行われる前に、何らかの競争があったと考えるべきです。
その競争とは、当然に公平であったはずではないのですが、いずれにせよ、それが行われた結果、少数の収奪する側の「勝ち組」と搾取される側の「負け組」との間に越えられない線が出来たわけです。
ここで、その線をいっそう確固たるものとするべく「勝ち組」は、その収奪の度合いを強めます。
そうすれば「負け組」は、その生活に苦しみ、這い上がるだけのチャンス確保の機会すら奪われるからです。
であるからこそ、収奪の手段は「強制的・非自由意志的」である必要があるのです。



曲を聴くことも相撲を見に行くことも、自由に行われるものです。*2
そして彼らを仰ぎ見る者のうち若い者には、「絶望」とは対極的な「自分もそうなれるかも知れない」という類の「希望」を与えることもあり得ます。
彼らの存在が、他者を苦しめ、そして這い上がるチャンスを奪うものでないのです。
そういう意味では、彼らもまた、大衆の側にあるということになり得ます。
たまたま「大人の都合」で、頭一つずばぬけているだけなのです。



朝青流は、初場所は優勝を逃しましたが、立派な相撲をとってくれました。
倖田來未も、その歌唱力はもちろん、自ら目標を立て、かつそれを実現できた*3点十分後を追う者の規範になり得ます。
是非とも復活していって欲しいです。

*1:発言者の一般知識が十分か否かと言う点も然り

*2:無論、情報操作で「ブーム化」された「強制」はあるけど、その程度は弱い

*3:「食わず嫌い」に出場する事を夢見て頑張った、とのエピソード参照